自己受容と美しくなりたい気持ちの狭間で

エッセイを書きました。

自己受容と、美しくなりたい気持ちの「葛藤」がテーマです。

美しくなるために100万円以上の借金をしようとしていた最近の話

千葉県で有名な歯科矯正にカウンセリングへ行ってきた。中学時代に3年間歯科矯正をしたが、もっときれいな歯並びを目指したかったからだ。

他人からみれば、ひどい状態ではないらしいが、自分からみればとても汚くみえる。なおしたくてたまらなかった。

カウンセリングの結果は、歯科矯正でなおすことができるとのことだった。だが、もちろん費用はかかる。「110万くらい」が、見積もりの結果だった。

ものすごい大金に見えるが、美容整形と比べると安いものだ。

わたしの今の状態を美容整形でなおすと、セットバックというアゴを後ろに引っ込める手術と、歯科矯正を併用しなければならない。

費用は手術代と歯科矯正代をあわせて、400万ほど。両方とも保険適用にならないので、莫大な金額になる。

400万の大金など、一生をかけても払える金額ではないだろう。

そこで、思いついたのが歯科矯正。年単位で時間はかかるが、美容整形よりも安く治すことができる。借金を考えていたというのは、歯科矯正のローンのことだ。

48ヶ月払い、月あたり25,000円。手数料・利息はかからない。確実に悩みを解決できるなら、この方法が最善だと思っていた。

今のわたしの経済状況からみると、ギリギリで払えるところだからだ。

とにかく、歯並びをなおしたくてしかたなかったわたしは、カウンセリングに行く前から、ローンをどうするかと考えていた。

100万円以上のローンを組んでまで、本気で歯科矯正をやろうとしていたのだ。

自分の容姿のことだから、同棲中のカレには相談せずにはじめようかと、こっそり考えていたりもしたが、はなしの流れでカレに相談をしてみたら、案の定ストップがかかった。

「100万円の大金の使い道をよく考えろ」

たしかに、その通りなのである。

100万円があれば、どのようにお金を使うだろうか? わたしはまっさきに、美容整形にお金を使うことを選ぶだろう。

しかし、カレは生産性をあげることにお金を使うと言っていた。仕事用に使うパソコンを、予備に一台買う。仕事を快適にできるように、新しい椅子を買う。

自分の容姿のことを気にするあまり、今すぐどうにかしたいと思うあまり、将来のことなど、これっぽっちも考えなかった。生産性など、どうでもよかった。

ただ、美しくなりたかっただけだった。

わたしには美しさがすべて

わたしは、世の中容姿がすべてだと思っている。「わたしには美しさがすべて」というモットーがあるくらいだ。

美容整形をくり返して、まあまあな顔を手に入れた。だが、もとの顔はだれが見ても「ブサイク」と口を揃えるくらい、ひどい容姿で生まれてきた。

他人からどう見られているか気になる、鏡で顔をみるたびに憂鬱になる、外に出る自信がない。

ブサイクなころは、そんなことばかり考え、悩んでいた。今でも自分の容姿に自信は持てないが、美容整形をしたことで大分マシになった。

顔の変化はもちろん、美容整形をしたことで生活が変わった。普通に外に出れるようにもなり、外で働けるようにもなった。男性とは無縁だったのに、恋人もできた。

ブサイクなことのわたしと比べると、美容整形のおかげで人生が前向きになったことは確かだ。

美容整形を決断をしたことは、まったく後悔していない。自分の経験上、美しくなるために美容整形は1つの方法だと考えるのは、この先変わることはないだろう。

しかし、最近になって、美しさに対しての価値観がすこしだけ変わってきた。

美容整形だけが、美醜だけが、美しさではないと。何となく理解できるようになった。

そう思わせてくれたのは、わたしの祖母だ。

祖母をみていると、美醜だけではない美しさを感じる。自分のモットーなど、どうでもよくなるような、不思議な気持ちにさせられる。

美しさは美醜だけではないと祖母が教えてくれた

祖母は、88歳になった。

頭は真っ白になり、年を重ねた証のように、肌にはシワがたくさんできている。一見すると年老いた女性にしかみえないが、わたしは祖母の生き方に美しさを感じた。

祖母は熱心なクリスチャンだ。毎週日曜日に、かかさず教会に行っている。もう何十年と、毎週通いつづけている。

そして、食事の前には、どんなときでもお祈りをして、周囲の人の健康を祈る。

毎日笑顔で、会う度に嬉しそうにむかし話をして、誰に対しても優しい。わたしの目には、そんな祖母のまっすぐな生き方が、美しくみえるのだ。

美醜だけが美しさではない。祖母の美しさを、理解できている。

自分の容姿の欠点をうけとめ、違うところで美しさを追求していこうと思えた。でも、ほんとうの意味で、わたしはまだ自己受容できていなかった。

ニセモノの自己受容をしていた自己中心的な自分

美しい生き方をしている祖母と、わたしを比べると、自分がとても薄っぺらくみえる。

容姿ばかりにとらわれいる時のわたしは、そこにだれも介入していない。

祖母のように他人の健康を願うでもなく、だれに感謝するでもなく。どうすればキレイになれるのか、どの手術方法がいいのか、自分がどうしたら最高に美しくなれるのかしか考えていない。

自分にしか注目していない、まさに自己中心的な有様。

この間カレとはなしていたとき、改めて、「美しさは美醜だけではない」という本当の意味を、理解しきれていないと気がついた。

100万円以上のローンを組むリスクや、経済状況のことまでを考えられなかったからだ。容姿の欠点がとてつもなく汚いものにみえて、今すぐどうにかしたい。

それだけの思いで、実際にローンを組もうとしていた。どうにかしたい気持ちのためだけに、周りを見ることもなく、人生を棒に振ろうとしていたのだ。

冷静になってみると、自分の安易な行動におどろく。

それでも、「借金をしてでも、自分の容姿を変えたい」というのが、わたしの芯にある。破滅してもいいから、すべての資産を美容整形につぎ込みたいとさえ思う。

どうなってもいいから、容姿を変えたい。これは、自己受容しきれていない表れなのだろう。

容姿の優劣はときに残酷で

なぜここまで容姿にこだわるようになったのか。その理由を探すためには、はるか昔にさかのぼることになる。

まわりと容姿の違いを感じはじめたのは、4〜5歳のころだ。わたしはなんで、周りの子と容姿が違うのだろうと、小さい胸の中で疑問に思っていた。

〇〇ちゃんの横顔はキレイなのに、わたしはココと、ココが違うと。幼いながらに、周りとの容姿の違いを気にしていた。

しかし、幼いわたしは、どうやって周囲の大人に説明したらいいのか分からず、胸の奥底にしまったままにしていた。

そして、そのまま小学校生になった。

本気で容姿に悩みはじめたのは、小学校高学年〜中学生時代だった。小学校高学年くらいにもなると、とくに女の子は色気づくころだ。

メイクをしだしたり、ファッションに気をかけたり。異性からどう見られているかを意識しはじめる。だが、その他にも変わることがある。

「容姿の優劣をつけるようになること」だ。

子供のころは、容姿など一切気にしない。しかし、色気づくころになると、一人一人の容姿の違いを理解できるようになってくるものだ。

〇〇ちゃんはキレイ、〇〇ちゃんはブサイク。

クラスで一番キレイなのは誰なのか、一番ブサイクなのは誰なのか。口にすることはなくても、容姿への優劣は自然とつけるものだ。

さらに、わたしは容姿の優劣の中で、自分がどのあたりにいるのかも理解していた。

まるで、容姿の階級をつけたヒエラルキーのように、キレイな子は「上」。まあまあな子は「中」と、ランク付けする。

そして、わたしは、容姿のヒエラルキーの中の「下」に入れられていた。「おまえは下の下だ」と、ハッキリと言われなくても、肌で感じるのだ。

というのも、小学生時代に6回の転校を経験したおかげで、周囲が自分に対して、どのように思っているのかを空気感でつかむことができたからだ。

転校をくり返した理由は、父の仕事と家庭の事情の関係だった。

1ヶ月しか通わなかった小学校もあり、あちこち点々として、落ち着かない小学生時代をすごした。

授業についていけない悩みもあったが、後からどうにでもなった。ただ、問題なのは、転校生という立場だ。

転校生は、一人ぼっち。

すでに仲良しグループができている場に、ポツンと入らなければならない。転校生でありながら、わたしはブサイクだった。

転校生で、ブサイク。いじめのターゲットになりやすい条件ぞろい。身体的ないじめをされた経験はないが、精神的ないじめは転校するたびに続いた。

人前に出る機会があると、その度にコソコソ笑われたりするのは、よくあることで、自分がブサイクだから笑われるのだと、小学生の頃から肌で感じていた。

自己受容と美しくなりたい気持ち

美容整形をした今でも、容姿を気にする気持ちに終わりはない。

目が気に入らない、鼻を高くしたい、アゴが大きいから小さくしたい。鏡を見るたびに、顔の欠点ばかりが気になる。

これからお金をかけて美容整形をすれば、今より美しくなることはできるだろう。

しかし、美容整形にも限界がある。

例えば、純和風な顔から、まったく別人の西洋人の顔になりたいとしよう。ある程度近づけることはできるかもしれないが、美容整形は魔法ではない。

自分という存在を、まったくの別人にするのは難しい。気になるところをすべて手術するとなれば、莫大な金額もかかる。

だからこそ、美容整形で美しくなりたい気持ちに、終止符を打たなければならないのだ。

そのためには、本当の自己受容を理解しなければならないだろう。

本当の自己受容とは何か。

例えば、人間が0〜100点で点数をつけられるとしよう。本当は100点でありたいが、自分には60点しかない。

どうあがいても、点数を上げられない現実がある。それなら、60点という自分の点数を受け入れよう。

「60点の自分わたしでもいいんだ」と。これが、本当の自己受容だ。

自己受容の例を、自分の容姿に当てはめてみよう。わたしの容姿は、完璧とはほど遠い。

美容整形をしても、まあまあな顔だ。どうあがいても、完璧になれる日はこない。それなら、まあまあな顔を受けて、今のわたしでもいいのだと、受け止めていくしかないのだろう。

自己受容とは、いい意味で、諦めをつけるところなのかもしれない。

女の価値は容姿だけなのか

そういえばこの間、カレにこんなことを言った。

「年をとったら容姿は崩れていくだけだから、今からキレイになっていないといけないんだ」

これは、100万円以上のローンを組んでまで歯科矯正をやりたかったときの、わたしの言い訳だ。

しかし、カレはこう応えた。

「たとえ年を取ったとしても、seinaの価値は変わらない」

その答えに、わたしは「美しさに価値は関係ない」のだと、そのとき激怒してしまった。

だが、改めて考えてみると、わたしという存在の価値をみてくれるということは、きっと幸せなことなのだろう。

わたしに、完璧な美しさはないが、キレイだと言ってくれるカレがいる。寝起きでひどい有様なときも、化粧をせずにダラしない格好でいるときも、キレイだよと言ってくれる。

老いて容姿の美しさがなくなったとしても、カレの態度は変わらないだろう。

外見よりも、中身を重視しているということだ。

そうだとわかっていても、わたしの心には何かがつっかえる。

完璧に美しくなれずに一生を終えるだなんて、それが女の幸せといえるのだろうか? 目の前に美しくなる方法があるのに、手を出さないなんて間違いではないのだろうか?

容姿を受け入れたいと思う気持ち、美しくなりたい気持ちが、ぶつかりあい、葛藤する。

これからの人生、課題は山積みだろう。この葛藤胸にしたまま、生きていかなければならないのだから。

この記事を書いた人

Seina

Seina

筋トレと美容整形好きWebライター·ブロガー/美容整形で生まれ変わった人/運営ブログ【美しくなければ生きていけない/月間5万PV以上】では美容整形、筋トレネタを中心に執筆中。プロフィールの詳細は「こちら」からご覧ください。※顔面骨格の美容整形を今年の2月にうけました

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