虐待、父の死、天涯孤独、美容整形、結婚 24歳になった今思うこと

こんにちは、筋トレ・美容整形好きWebライター・ブロガーのseina(@st_0905)です。

いつも当ブログ「美しくなければ生きていけない」をご覧いただき、ありがとうございます。

すこしでも誰かの役に立ちたい気持ちでブログ更新をつづけ、1年4ヶ月がたちました。

ブログタイトルの通り、当ブログのメインテーマは「美しくなること」です。

ですが今回は、わたしのこれまでの人生を、この1ページにまとめることにしました。

というのも、もうすぐ大きな美容整形をします。(ルフォー・SSRO・オトガイ形成・頬骨弓骨切り)

手術時間は10時間を予定。

無事に麻酔から目を覚ませることを祈りますが、何が起きるかわかりません。

だから、「嫌われてもいいや」という気持ちで、ずっと書きたかったことを書きます。

文字数は8844文字になり、過去最高の大作記事となりました。

前半を読んであきてしまった方は、元の画面に戻っていただいて構いません。

わたしの人生のお話ではありますが、1つの短編小説だと捉えていただければ読みやすいかなと思います。

もし、手術から戻ってこれなかったら、これがわたしの遺書になるでしょう。

むかしの記憶


▲父に抱かれながらすべり台で遊ぶわたし

時折、これまでの人生についてふりかえることがある。

電車を待つホームで。

飛行機を待つゲートの前で。

ゆっくりと流れる時間があり、一人のときに限って、過去の記憶をたどることが多い。

さまざまな記憶が断片的に流れるが、考えたところで結局答えはでない。

これまで経験してきたことのすべてに、果たして意味があったのだろうかと。

少しばかり昔ばなしをしてみよう。

わたしは14歳から天涯孤独だ。しかし、この世に生を受けたのだから、両親がいなかったわけではない。

わたしが3歳になるまで母ならぬものと、父がいた。

母はマレーシア人。

異国の地でストレスがかさなったせいか、母は体調を崩し、仕方なく祖国に帰ることになったのが離婚した大きな原因だと聞いている。

だから、母に思い入れはない。「母ならぬもの」なのだ。

それから、わたしには父だけになった。

だが、そのたった一人の親である父は、14歳のときに癌で失った。

50歳だった。わたしのヒーローであったのに、積み木がたおれるように音を立てながらガラガラと崩れて、この世を去っていってしまった。

わたしという娘がいるのに、ハワイに行くと約束をしていたのに。

「あと3年経ったら行こう、ハワイでゴルフをしような」

と、言っていたはずなのに。その言葉を残して。

ヒーローだと言うくらいなのだから、父はわたしにとって大きな存在だったのは確かだ。

背が高く、抱きしめてもらうと、胸の中にすっぽりとおさまるくらい大きな身体だった。

いつもコロンの香りをさせていて、それを父のニオイだと感じて、とても好きだった。

わたしは父方の親戚の家にあずけられて幼少期をすごしたのだが、仕事が忙しいときも週に何度か会いにきてくれた。

父に会うのがいつも楽しみで、あと何時間後に会えるのかを電卓を使って計算するほど待ち望んでいた。

幼稚園のころから1日は24時間だと理解していたので、電卓を使って24と、会えるまでの日数をかける。

その計算した数値によっては、

「あと72時間後か、長いなあ」

と寂しく思っていた。

わたしが幼かったころの父はとても優しかった。愛してくれていると分かっていたし、わたしも父のことが大好きだった。

昔のよい記憶とは裏腹に、別の父の記憶もある。

いろ鮮やかな花の中に埋もれて、桐箱の中に収まっているやせ細った父の姿だ。

泣きじゃくりたい気持ちをおさえながら、葬儀に参列した周囲の人のマネをするように、わたしも色鮮やかな花を父に添える。

中には「よく頑張ったな」と、父に声をかける者もいる。

父の母であるわたしの祖母が、悲しみをこらえながら、同じように花を添えている。

父の亡骸が火葬場にいく直前のはなしだ。

あの日を思い出すと、父の亡骸がステンレスの箱の中に押し込められ、スイッチが押される瞬間の映像が脳裏で流れる。

わたしは思った。

「そのボタンを押さないで」

「父を灰にしないで」と。

そのステンレスの箱の中から出てきたものは、父ではなかった。

目を背けたい記憶から目をつぶるが、まぶたの裏までこびりつき、逃れることはできない。

あれから10年。わたしは美容整形をくり返す一人の女になった。

父のことが大好きだったわたしはいない。

その父もとっくに、この世にはいない。

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私のために愛してもいない人と再婚をした父


▲ハワイで撮影した若かりし頃の父。20代後半〜30代前半くらい

生前の父は「いい男」だった。

182cmの長身。スポーツマン。大学卒。

ホテルマンだった父は、40代ではめずらしく役職が高いところに就いていた。

仕事もできる頭脳派だ。

だが、典型的な「いい男」にも問題があったようで、結婚には不向きだった。

父はバツ3。

これを書いているわたしは、2番目に結婚をしたマレーシア人女性との間に生まれた。

わたしが3歳のころに離婚。その後、父方の親戚の家に預けられ、幼少期を過ごした。

父は離婚後も女性にモテた。バレンタインデーに贈られたチョコを始末するのは、いつもわたしの仕事だった。

箱をあけてみると「○○○さん(父の名前)大好き」とデコレーションされたチョコもあったり、4,5歳だった当時、子供ながらに後ろめたさを感じながら食べていた。

時折交際する女性もできたようで、父と優しいお姉さんと一緒に食事をしたり、遊びにいくこともあった。

「父の彼女」という認識はなく、「時々会う優しいお姉さん」としか思っていなかった。

わたしという連れ子がいるのが、大きな妨げになったのだろう。

しばらくはどの「優しいお姉さん」とも再婚にはいたらなかった。

だが、父親ながら、寂しい思いをさせて申し訳ないと思ったのかもしれない。

わたしが小学2年生から3年生にあがるころ、父が再婚をした。

はじめはただの「よく一緒にいる優しいお姉さん」だったが、いつの間にかぎこちなく「お母さん」と呼んでいて、いつの間にか結婚式をあげ、いつの間にか継母ができた。

トントン拍子に再婚をして、不思議に思っていた。

父が再婚をしてしばらく経ってから気がついたのだが、父が再婚を急いだ理由は、父との電話で「お母さんがほしい」と、わたしがねだったからではないかと思う。

別に、そこまで母親がほしいわけではなかった。ただ、再婚をすれば父と一緒に暮らせるのではないかと思ったから、そのように言ってしまった。

再婚をしたが、父は継母のことを愛してはいなかったと、子供から見ても思う。

再婚をする前から喧嘩が絶えず、再婚をした後も喧嘩が絶えず、エスカレートをして、父が継母に暴力をふるうこともあった。

だから父は、私のために愛していない人と再婚をした。

継母からの虐待の日々から逃げ出すまで

継母と父との暮らしは、3年で終わる。

夫婦仲が悪かったのも離婚の理由だが、継母から虐待されていたことを父に告白をしたのが、離婚の決め手になった。

わたしにだけご飯がない

わたしの身体を傘でたたく

わたしの髪の毛を掴んで振り回す

わたしの頭を床にたたきつける

わたしに酷いことを言う

ココロと身体を傷つけられる日々から逃れたい思いから、

「もうお母さんと一緒に暮らしたくない」

と、父に告げた。

この一言を伝えるまで、何回タイミングをうかがっただろう。

やっとの思いで伝えることができたのは、ウイルス性胃腸炎とインフルエンザを併発して死にかけて入院し、父が付き添いのために、簡易ベッドで寝泊りをしてくれたときだった。

普段、自宅で父と二人っきりにチャンスはない。

継母は父と話すことに事細かく聞き耳を立て、行動もすべて監視されている。

口が裂けても「毎日殴られている」と言えるものではない。

もし告げ口しているのを聞かれてしまったら…と考えると、継母と二人きりになったとき、どんなことをされるか恐ろしくて、身体が動かない。

かりに父に告白をしても、絶対継母に問い詰めるだろう。

そうなったら、継母と二人っきりになるのは避けられない。どんな仕打ちが待っているか、恐怖で身がすくむ。

だから、3年間、「大人しく聞き分けのよいわたし」を演じることしかできなかった。

そんな毎日。父と二人っきりになれるチャンスが巡ってきたのは、病室しかなかったのだ。

虐待を告白したその後、家から逃げ出せる体力が回復するまで待ち、父方の親戚の家へと避難した。

ある日の早朝、継母が眠っている間に、物音を立てないよう静かに家を飛び出し、最寄りの駅まで父と一緒に走り、電車に乗った。

包丁を持って追いかけてくるかもしれないからと、父は「自宅にある包丁やはさみを隠してきた」と言っていた。

当のわたしは刃物を隠してまで家を出てきた父の心境とは裏腹に、虐待される日々から解放される嬉しさと、滅多に訪れない父と二人きりの外出がかさなり、心が踊っていた。

その後、父と継母は別居をしたが、とある事情があり、なかなか離婚が決まらなかった。

父が継母を訴えたからだ。

まず、継母と暮らしていた3年のあいだに、わたしは大きな怪我をした。

左目を失明しかけるほどの大怪我。

頭部を殴られて縫うほどの怪我など。

怪我をした当時は、「自分で滑って転んだ」と適当な理由をつけて真実を話さなかった。

継母からも「父には絶対言うな、言ったらどうなるかわかっているだろうな」と、口止めされていたから、話すことはできなかった。

あの日の病室で、これらの怪我の原因はすべて継母にモノで殴られたことによって負ったものだった、ということも告白した。

それを聞いた父は、大人のやり方で継母を罰しようと裁判をおこした。

これが離婚が長引いた大きな理由だ。

継母から逃げた後は、裁判の証拠に必要だったため、虐待された事実を告白していく機会が何度かあった。

法律事務所で調書をとったり、裁判に出廷もした。

だが、わたしたちがおこした裁判は、確実に証拠不十分だった。

虐待されたわたしの記憶と、ヒステリックになりながら怒りに身を任せてわたし殴った継母の記憶しか、真実を証明するものはなにもないからだ。

継母から受けた数々の悲しいことは、たしかな真実であるはずなのに。

父と継母の離婚が決まったのは、父がなくなってからの話だった。

父が死んだのは私のせい


▲大学時代の父

父が死んでしまった原因は、わたしの責任だと思っている。

わたしが母親をねだったところから始まり、決定的だったのは継母からの虐待を告白したこと。

娘が気がつかぬ間に虐待をされていたのだ。心労が重なるのは当たり前だろう。

虐待の告白をした後、父の身体のあちこちに病気がみつかった。

やっと2人暮らしはじめたと思った1年半後に、死んでしまった。

鮮明に覚えているのは、生まれて初めて父の涙をみたことだ。

わたしが弁護士に証言した虐待の日々のことを聞いて、父は泣いていた。

わたしが泣かせてしまい、わたしが死なせてしまったのだ。

いつの日だったか、わたしはいつものように継母の「怒りの地雷」を踏んだ。

どの地雷はいつもどこにあるか分からない。急にあらわれる。

踏まないように細心の注意をふるうが、継母はその慎重な様子もお気に召さないようだ。

地雷を向こうから投げつけられるような、理不尽なこともよくあった。

確かこのときは、地雷をむこうから投げつけられたときだったかもしれない。

馬乗りになり、首を絞められた。

継母からの暴力や暴言には手加減がなかったが、流石に首を絞めることは死につながる。

流石に力の加減はするだろうと思っていた。

しかし驚いた。

「死ね!!!」と叫びながら、本気で殺そうとしてきた。

首を絞める圧力、相手の表情から「あ、この人は本気で私を殺そうとしているな」と伝わってきた。

息をするだけで、生きているだけで、殺意を向けられるわたしは。

それほど継母にとって憎い存在だったのかと考えると、自分の人間的な価値を疑った。

途中で我に返った継母は、首からパッと手を離した。

まるで何かに憑依されていたのが、スッと抜けたようにみえた。

首を絞められることは想像以上に苦しい。

顔に血がのぼり、喉が潰れるような感覚。

継母の髪の毛がわたしの顔の前に垂れ下がり、継母のにおいがする。

目の前に映っている人は目が血走り、その形相はまさに「鬼」そのものだ。

継母がわたしをを殺めようとしている時間は、ものの数十秒だったかもしれないが、その時間はとてもスローモーションで、ゆっくりと時間が流れた。

その間、横目で隣にある窓からベランダをみた。

天気の良い午後。太陽の香りがしそうなほど、日が差している。

枯れて茶色くなった雑草が、日差しにあたりキラキラと輝いている。

窓を挟んだわたし側の世界とは対象的に、平和な空間が流れていた。

その光景を見ながら、こう思った。

「この人はわたしを絞め殺したあと、ベランダに穴を掘って埋めるに違いない」と。

短い時間のあいだ、そんなことがあたまをかけめぐった。

でも、それでよかったのだ。

わたしを殺し、埋めてくれたなら良かったのに。

そうすれば継母は警察に捕まり、父は死ななかったはずだろうと。

誰も助けてくれなかった大人たち

なぜ3年もの長い間、継母からの虐待が父にばれなかったのかと誰もが疑問に思うだろう。

「ちょっと気の強い人に見えたけど、そんなことをする人に見えなかった」と親族は口を揃えていう。

同じ屋根の下に暮らすもの同士なのだから、虐待を隠すことなどできないのではないかと、信じられない人もいるだろう。

しかし、みんな知らない。継母は隠し通すことができる女だということを。

父の前では優しい母を演じ、父が不在にした途端、虐待をする怖い母親にコロッと変貌するという2面性を使い分けていた。

父と交際・再婚・同居にいたるまで、ずっと彼女は父の前で「優しくて美人でいい母親」を演じていた。

だから父方の親族をも騙すことができた。

意地の悪い継母だと、わたしだけが知っていた。

表と裏の顔を器用に使いわける女だったから、初めのうちはわたしも騙されていた。

交際中、父が不在にしたときに急にキレ出すことがあり、「何かこの人はおかしいな」とは思っていたが、コロッと「優しくて美人でいい母親」に戻る。

さっきのは何かの間違いだろうと、見て見ぬ振りをした。

2種類の顔を使い分けるのがツラくなったのか、一緒に暮らすうちにだんだんと仮面が剥がれ、継母は家の中で弱い立場にあるわたしの前だけ、ヒステリック女に変貌をした。

そんな生活が続いている中で、子供ながらに不思議に思っていたことがある。

父と継母は愛しあってもいないのに、喧嘩が絶えないのに、なぜ結婚生活をつづけ、一緒に暮らすのかと。

父はわたしのために夫婦生活を続けたかったのかもしれない。

だが、継母はどうだろうか。

毎日暴力をふるいたくなるほど憎い他人の子供と一緒に暮らす意味が、どこにあるのだろうか。

継母が結婚生活を続けたかった理由は、父がなくなって3〜4年経ったころに知ることができた。

目的は「お金」。これだけだった。

裁判を起こしたものの、決着がつかずに何年も経ち、多額の遺産を渡すことを条件に、和解をする方向ではなしが進んでいた。

本来なら裁判をしているもの同士、会うことは許されない。

しかし継母は、父の実家に金の無心をしてきた。

「今でも○○○さん(父の名前)を愛している」と心にもないことを言いながら、多額のお金を要求してきた。

電話でアポを取るわけでもなく急にきたものだから、わたしはその場にいなかった。

伯母から「こんなことがあった」という話を、電話で聞いた。

そのとき、ちょうど怪我をした左目の定期検診に行くために電車に乗ろうとしていたときだった。

電車の中で人目を気にする余裕もなく、ボロボロと泣いた。

彼女は絶対に知るはずがない。

父がどんな風に苦しみ、どんな風に悲しみ、どんな風に人生に絶望をし、どんな風に死んでいったのかも知らないで、よくも「愛している」と嘘をつけたものだなと。

憎しみや悲しみが入り混じった感情が爆発した。

継母は一度夫婦になった相手が死んでも、表の顔を器用に使い分け、お金の無心をする。

そんな女だ。

結局、裁判をおこしたのにも関わらず、継母は法的に罰せられることはなく、父の多額の遺産を渡した。

そんな女に、父の大事なお金を渡すことなどしたくはなかったが、縁を切るためにせざるをえなかった。

裁判を続けたところで、決着がつかず、何百万というお金がかかり続けるからだ。

誰も助けてくれなかった大人達。

お金の無心をする女。

子供だったわたしは大人が大嫌いになった。

虐待した継母を許せるか 受け入れるしか道はない

継母を許すか許さないかの問題については、いまでも頭を悩ませる。

お風呂の浴槽に沈ませて、溺れさせようとしたこと。

鼻血が出るまで殴られたこと。

「お前は醜い、汚い」と言われたこと。

「自分の髪を切れ、坊主にしろ」と、正座をさせられ、ハサミで髪の毛を切るよう強要をさせられたこと。

真冬に外に締め出され、足の感覚がなくなったこと。

寒くて寂しくて一人で泣いたこと。

誕生日に、いつものように叩かれて殴られて、悲しかったこと。

わたしの何が悪かったのか?

これまで受けたことを思い出し、消化することができない。

「許せるか?」と言われたら、答えにつまる。

反対に「許せないか?」と言われたら、YESと答えてしまいたくなる。

けれど、わたしの良心が「許せない」と答えないようにストップをかけている。

許すことを選んだ方が、他者から見たときに「人として評価されやすい」とわかっているからだ。

世の中の価値観では、誰かに酷いことをされた時、その相手を許すことを選んだ方が「善(ぜん)」だ、という考えがあると思う。

たとえどんな酷いことをされても、どんな不幸に見舞われても、許せる人間は美しい。

「素晴らしい人間だ」と誰もが感じるだろう。

つまり、許しとは「美学」でもある。

「許し=美学」だとわかっているからこそ、自分のために、または他者から見たときに「善(ぜん)」とうつるようにしておきたいという、自分のエゴなのかもしれない。

それか、「憎しみを抱えながら生きるよりも、相手を許して平穏に生きる選択をする」という、美しい姿を選びたいのかもしれない。

この「許し」について、海外ドラマ「ウォーキング・デッド」のワンシーンに、心を打たれるこんなセリフがある。

「怒りより許しのほうが強い」と。

これは、ウォーキング・デッドに出てくる主要メンバーの1人が、ある人物に言い放ったセリフだ。

本当は怒りや憎しみでいっぱいなのに、それでも許しを選ぶことは、容易ではない。

だから、どんなことをされようが、どんな酷いめにあおうが、相手を許せる人はつよい。

という意味がセリフに込められている。

このセリフを聞いたときに、わたしは自分の過去と重ねてドキッとさせられた。

許せる人の方が強いと頭では理解できるが、残念ながら今のわたしに「許し」を選択するほどの強さはない。

となれば許せるか、許せないかの問題ではなく、ただ過去を受け入れることしか、道はないのだろう。

24歳になった今思うこと

24歳になるまでの人生、決して良い道を歩んできたとは言えない。

中学・高校はろくに行かず、大学は中退して学費が無駄になってしまった。

就職もせずに水商売をしたり、貯めたお金で美容整形をくり返した。

きっと父が生きていたら、叱られるに違いない。

だが、ここ2年の間に、人生が良い方向に変わってきたと感じている。

在宅でできる「Webライター」という仕事を見つけ、ブログの運営もはじめた。

そして、今年の1月に、22歳年上の人と結婚をした。

弱く、未熟で、醜いわたしを、受け入れてくれた「証」に感じた。

そのおかげか、過去に体験したさまざまな記憶は、ぼんやりと薄くなりはじめている。

ときどきむかしを思い出し涙することもあるが、とにかく今は、彼と毎日楽しく過ごすこと。

仕事や、やりたいことなど、生きる目的がハッキリしたことで気になる機会が減ってきた。

それに、いつも温かく迎えてくれる親族や、愉快な友人達との出会いもかさなり、ココロの傷をいやす時間も増えた。

というような、愛情、人とのつながり、生きる目的、時間の経過にふれながら24歳まで生きてきたことで、「人生は自分の手で変えることができる」ということが、理解できてきたように思う。

幼いころのわたしに何かを伝えることができるなら、「今感じている痛みは、いつか消えるものだ」と言いたい。

同じように、虐待の癒えない傷に苦しんでいる人がいたら、「きっと大丈夫だ」と伝えたい。

もちろん今でも、うまく生きることは難しい。

だが、愛する人と出会えたこと、人生を与えてくれたこと、悲しみを乗り越える経験を与えてくれたこと。

わたしを産んでくれた母、育ててくれた父に、支えてくれた親族や友人に、感謝の意を示したい。

ありがとう。

最後に

私が継母から虐待をうけた期間は、たった3年の出来事だった。

きっと本当の母親ではなかったから、この期間ですんだのだと思う。

もし逃れられない環境下で、長い間傷つけられている人がいるかもしれないと考えると、心の傷はどれほど深いものなのだろうかと胸が痛くなる。

誰か一人でも話せる人を見つけ、こんなことがあった、こんな風に辛かった、こんな風に感じたと、心のうちを話してみてほしい。

言葉にして誰かに伝えることは、「癒し」であるから。

わたしの人生を溶け込ませたこの記事が、誰かの心に届くこと祈るばかりだ。

追記(2018年2月17日)

長い記事を最後までご覧いただき、ありがとうございます。

2018年2/1に、顔の骨格を変える美容整形をしました。

その後、11時間6分の手術から無事生還。

この記事は「遺書」ではなくなりましたが、執筆した記念に当ブログに残しています。

そして術後にダウンタイム日記を書きましたので、ご興味のある方は下記のリンクからどうぞ。

「顔の骨格を変える美容整形ってこんな感じなのか」と、お分りいただけるのではないかと思います。

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・顔面骨格の美容整形(ルフォー・SSRO・オトガイ形成・頬骨弓骨切り)のリアルなダウンタイム日記①【手術当日〜術後7日目】

・ルフォーとSSRO(両顎手術)のダウンタイム日記②【術後2週間〜5週間】

・ルフォーとSSRO(両顎手術)のダウンタイム日記③【術後6〜10週間】

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この記事を書いた人

Seina

Seina

筋トレと美容整形好きWebライター·ブロガー/美容整形で生まれ変わった人/運営ブログ【美しくなければ生きていけない/月間5万PV以上】では美容整形、筋トレネタを中心に執筆中。プロフィールの詳細は「こちら」からご覧ください。※顔面骨格の美容整形を今年の2月にうけました

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